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「信じ・待ち・許す」ー スクール・ウォーズ・山口良治先生 考

おそらく、この人がいなかったら、日本ラグビーの歴史は違ったのもになっていたのではないか?

 

山口 良治(やまぐち よしはる)氏。日本のラグビー指導者で元日本代表フランカー。

京都市立伏見工業高等学校ラグビー部監督時代のエピソードは、1984年放映のテレビドラマ『スクール☆ウォーズ』(馬場信浩原作)として大きな感動を与え、いまや伝説のドラマとなっている。

 

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山口氏は1943年(昭和18年)、福井県三方郡南西郷村(現・美浜町)の出身。

7歳(小学校1年生)にして母親と死別し、以降は父子家庭で育つが、

継母との折り合いが悪く孤独な少年時代だったという。

 

そんな辛い経験が、後の山口氏の指導者として子供達への指導(似た境遇にあった「弥栄の清悟」こと、山本清悟氏との関りなど)の伏線にあるのではないかと思う。

 

そんな少年時代、「いろいろな先生に大事にしてもらった」経験から教師の道を目指したという(““泣き虫先生”が語る教育論「教員の仕事は思い出づくりのサポート」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2017年1月11日) 。

良き師に恵まれたことは山口少年にとって僥倖であった。

 

中学校時代には甲子園で見たプロ野球に魅せられ、野球部に所属。キャッチャーであり、主将も務めることとなった。

 

その後、役場か農協での勤務を希望した父の勧めで、福井県立若狭高等学校土木科に進学するも、高校が若狭農林高等学校へと改組し、野球部も廃部された。

そのため甲子園出場の夢が途絶え、その後は先輩の勧めでラグビー部に所属。

 

高校卒業後は、名将・芳村正忠監督が率いる強豪・日本大学に進学。おそらく高校時代からラグビーのスキルも高かったのだろう。

しかしハードな練習に挫折。また上級生の理不尽なしごきに不満を抱いていた事もあり、体育科教師に目標を転向して休部。勉強もせずに堕落した生活を送っていたという。

 

後に氏は「負けを知らない人間に勝利はない」と語っているが、これらの学生時代の挫折体験がもとになっているのではないか。

 

 

その後、一念発起して教員養成では定評がある日本体育大学への転校を決意し、芳村監督から激励の言葉と日体大ラグビー部の綿井永寿(監督、のち日体大学長)への推薦状を貰い、日体大の2年次に編入学試験を受け合格する。

 

日大より更にハードな練習に挫折しそうになるも、人並み外れた努力で頭角を現し、100人以上いる部員の中で4軍から1軍にまで昇格し、関東選抜に選ばれるまでに至った。

 

大学を卒業し、岐阜県立長良高等学校、岐阜県立岐阜工業高等学校へ教師として赴任し、1966年(昭和41年)、ついにラグビー日本代表に選出される。

 

この時の日本代表監督が早稲田の監督も務めた大西鐵之祐氏。

 

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ちなみに、現在スポーツにおいて、「日本代表」と共に「〇〇ジャパン」という名称を使用するが、

この慣用のルーツは大西氏に起因する。

 

1966年に日本代表監督に就任する前、当時はラグビーでも「全日本」という言い方をしていたが、

それではただの寄せ集めチームの名前に過ぎないとして、

 

「いいか、君らは日本を代表して戦うんだ!よって、これから『ジャパン』ということにする。」と、代表選手を集めたミーティングで説いたという。

 

そのため、ラグビーファンは「ラグビー日本代表」を愛称を込めて「ジャパン」と呼び、また「ジャパン」といえば「ラグビー日本代表」なのだ。

 

 

なおドラマ「スクール☆ウォーズ」では、「大北達之助」(配役:近藤洋介)の名称で、主人公の滝沢賢治に、「信は力なり」「One for All. All for One.」の姿勢を説く場面で描かれている。

 

 

山口氏は1968年のニュージーランド遠征、1971年の対イングランド戦、1973年の英仏遠征など数々の国際試合に出場し、名フランカー、名キッカーとしてアジア競技大会優勝に2度導くなど1974年の現役引退まで活躍した。

 

 

1975年(昭和50年)に京都市立伏見工業高等学校ラグビー部の監督に就任。

ここからの経緯は本やドラマ、ドキュメンタリーで描かれ、多くの知るところであるが、

特にドラマはデフォルメし過ぎで、解せない点も多い(が、まあ娯楽としてみれば面白いが)。

 

就任当時の山口氏は、元「日本代表」であったことを誇りに思うがあまり、後に本人も反省しているが、練習に代表ジャージを着て出るなど、生徒たちには鼻持ちならない行動もあったようだ。

(この辺り、巨人軍V9戦士の土井正三氏がオリックス監督に就任後、練習に「巨人軍・土井正三」と刺繍してあるグラブを持参して、オリックスの選手たちに総スカンを食らったくだりと共通するものがある)。

 

1975年5月17日の京都府春季総合体育大会、京都の名門・花園高等学校戦。

伝説の場所は吉祥院公園球技場。ここで0対112の大敗を喫す。

 

ドラマでは、不甲斐ない生徒たちに怒りを爆発させて、スパルタ的にヤル気を起こしたように描かれているが、実際は違っているようだ。

伏見工業伝説 泣き虫先生と不良生徒の絆

 

 

「みんな、お疲れさん。怪我はなかったか?悔しかっただろう」

 

これが山口氏が選手たちに掛けた本当の言葉だという。

 

山口氏も当初は「俺の言うことを聞かないから、無様な試合になるんだ」「始めは負けて帰ってくるのに悔しがらない、ヘラヘラしている彼らを許せなかった」という。

 

しかし、

「ふとメンバーを見ると、ユニフォームは泥まみれだった。彼らは決して、手を抜いていた訳ではなかった。それに気付いた瞬間、『この子たちは本当は悔しいんやろうな』『今まで俺は、この子たちに何をしてやったんや?』『俺は全日本や、監督や、教師やと、偉そうに叱り飛ばしていただけや』」

 

「初めて矢印が自分に向き」、その自分に気付いた時、「本当にすまん」と思ったという。

その思いから出たのが、

 

「みんな、お疲れさん。怪我はなかったか?悔しかっただろう」

 

という言葉だったのだ。

 

確かに、これではドラマのような華々しい盛り上がりはないかもしれないが、

真実の方がずっと心に刺さる。

 

 

【稀有な才能との運命の出会い】

 

 

1977年(昭和52年)、後にラグビー日本代表となるレジェンド・大八木淳史氏が伏見工業に入学。

しかし大八木氏はそれまでラグビーの経験はなく、伏見工業を志望したのも実家が工務店だった関係からであり、190cmの巨体に惚れ込んだ山口氏にラグビー部に勧誘されたのがラグビーを始めたきっかけという

(潮2006年1月号  大八木淳史『山口良治–恩返しは一生かかってもできない。 特別企画 師弟–人間教育の原点。わが師を語る』)。

 

山口氏との出会いも運命の成せる業なのだろう。

 

 

そして翌年1978年(昭和53年)、「ミスター・ラグビー」こと、平尾誠二氏が入学する。

平尾氏は小学校時代は野球少年だったが、京都市立陶化中学校(現・京都市立凌風中学校)入学と同時にラグビーを始めた。

 

きっかけは、

「野球もサッカーも人が多すぎて1年生はプレーをさせてもらえない。その中でラグビー部はとても楽しそうだったから」

 

というから、いかにも平尾氏らしい。

 

そして1977年(昭和52年)秋、平尾が中学3年の時に出場した京都府秋季大会決勝戦、これが伏見工高―花園高の前座試合だった。

山口氏は、教え子たちのウォーミングアップに立ち会いつつ、平尾少年のプレーに目を奪われたという。

 

「『あそこが空いているから蹴れ』と思って見ていたら、ポンと蹴る。『前が空いた』と思ったら、自分でボールを持ってダーッと走る。私が思い描いた通りのプレーをしていた」

平尾誠二を語る(1)進化したラグビーの創造者だったのに

 

それから間もなく、山口氏は平尾の自宅を訪ねた。

平尾氏「ある日帰宅すると、知らんおっさんが家に上がり込んでいて「お帰り。遅かったな」と大声で言う。それが山口先生でした。

 

「知らんおっさん」といっていることから、当時平尾氏は山口氏が元日本代表だとは知らなかったのだろう。

 

山口氏「平尾本人は、目をクリッと見開いて、私の日本代表時代の話を聞いてくれた。だけど、平尾のお父さん、お母さんは、けんもほろろやった。あの頃、京都のいい選手はみんな(府内きってのラグビー強豪校の)花園高に進学したから。帰り道は『平尾が花園高に行ったら、3年間は勝てないぞ』と思いながら歩いたことを覚えている。伏見工に来てほしかったけど、半ば諦めていた」という。

 

だが、山口氏の情熱は平尾少年の胸の奥まで届いていた。

 

平尾氏「『君のプレーを見て一緒にラグビーを楽しみたいと思ったんや』と言って、それから2時間延々と夢を語って帰りました。そりゃ、感動しますよ。それで親父に「伏見工業に行かせてください」と頭を下げたんです」

 

その時、平尾氏は特待生(授業料免除)で名門・花園高等学校(何と!)への入学が決まりかけていたという。当時は伏見工業高はワルの集まりだったため両親は反対したが、平尾はそれを振り切り伏見工業に入学した。

 

翌年2月、平尾の入学願書が伏見工に届く。山口は飛び上がって喜んだ。その時点ではまだ、伏見工は年末年始の全国高校ラグビー大会に出たことさえなかった。それなのに、たった1人の入学願書を見ただけで、チームの歴史が変わる日が来ることを確信した。

 

「その瞬間、3年後に日本一になるという構想が描けた」(山口氏)

 

もし、大八木氏がラグビーを始めていなかったら?平尾氏が伏見工業に入っていなかったら?

 

山口氏、伏見工業は伝説にならなかっただろうし、日本ラグビーの歴史も変わっていたのではないかと思う。

 

 

第60回全国高校ラグビー大会決勝(1981年(昭和56年)1月7日)

伏見工 vs 大阪工大

 

 

 

【ドラマ「スクール☆ウォーズ」制作経緯】

大映テレビ取締役でプロデューサーでもある春日千春が、1983年の8月、山口良治の講演会をたまたまテレビで観たことがきっかけという。

(※ 実はこの講演会のテレビ放送、私(Dr.がわそ)の親父が録画していて、私もみた記憶が薄っすらとある!スポーツ好きだった親父は伏見工業、山口氏を知っていたのだろうか)

 

もしこの講演を春日プロデューサーが見ていなかったら・・・

この偶然がなければ、テレビ史も変わっていただろう。

 

 

【平尾氏の死】

2016年(平成28年)10月20日、平尾氏が死去。53歳だった。

 

亡くなった朝のこと。伏見工のOBで、同志社大や神戸製鋼でも活躍した細川隆弘から電話がかかってきた。細川は平尾のいとこでもある。

 

山口氏「細川に『元気にしてるか』って聞いたら、『平尾さんが亡くなられたんですよ』って。信じられなかった。親が子を亡くして嘆き悲しむのを見聞きするけど、そんな気持ちだった。教え子はたくさんいるけど、あれほど関わった子はいなかったから」

 

約4か月後、神戸市で「感謝の集い」が開かれた。

山口氏は「親より先に逝くなという大事なことを教えてやれなかった」と、言葉を詰まらせた。

 

その思いは今も消えない。

 

 

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