安永8年(1779年)生まれ。江戸時代後期の漢詩人。
越後村上藩士、長尾直右衛門景行の二男。
名は景翰(けいかん)、字は文卿。通称は直次郎、藤十郎。
別号に臥牛山樵、青樵老人など。
父・長尾直右衛門景行は村上藩主・内藤侯の江戸藩邸に仕え、長沼流剣法の師範であった。
秋水は景行の二男として生まれた。
2008/1/1 大場 喜代司 (著)
14歳のとき信濃高島藩・諏訪因幡守家来久保田元右衛門の養子となるが、
久保田家の家風に合わず出奔し、水戸藩の家臣某の家僕となり、
十余年間働きながら学問を修めたという。
文字は上手で、文章は特に漢詩に長けていた。
さらに志を立てて諸方に遊学し、或る時は京都辺を往来し九州のあたりまで行き、
或る時は奥羽の各地を歩き諸家に刺激された。
文政2年(1819年)秋水四十歳の時、海を渡り蝦夷地松前にわたり、
ロシアが樺太・千島・蝦夷地を侵犯する実情を見聞し、痛憤やる方なき日々を送り、
以後諸国をめぐって北方防備の急を説く。
このとき松前城下で海辺防備のことを憂えて作った詩で詠んだの詩
『海城寒折』(かいじょうかんたく)が有名で、
現在もその碑が福山城(松前城)の本丸御門に建てられている。
参照(このサイトより引用):https://www.nihon-kankou.or.jp/detail/01331aj2200025981
海城寒折
海城の寒柝 月 潮に生ず
波際の連檣 影動揺す
此れより五千三百里
北辰直下 銅標を建てん
【読み】
海城(かいじょう)の寒柝(かんたく) 月 潮(うしお)に生ず
波際(はさい)の連檣(れんしょう) 影(かげ) 動揺
此れより五千三百里
北辰(ほくしん)直下 銅標を建てん
【現代訳】
海辺の城に夜警の拍子木の音が寒そうに響き、月は満潮と共に昇った。
波打ち際には帆柱が並び立ち、その影が波に揺られて動いている。
こうした景色を見るにつけ、北方五千三百里
北極星の直下に銅標を建てたく思うのである。
注釈
※ 寒柝:寒い夜に打つ夜警の拍子木
※ 連檣(れんしょう) :多くの帆柱
※ 五千三百里:松前から北極点までの距離
※ 北辰(ほくしん):北極星
※ 銅標:国境を示す銅製の標識
詩吟 「松前城下の作」 長尾秋水

その後も各地の名のある人々を訪ねて、世情を憂い、
かつ北方の風雲の急を説いたが、
その言の過激なため狂人として遇された。
そんな世情に秋水は
「遂に天下にともに語るものなし」として、
憂愁の心を詩作に紛らしていたという。
天保の末年(1843年)頃、郷里村上に戻り偶居していた。
秋水の学識を惜しんだ藩士が、藩の学館に推挙しようとしたが、
藩老がその言論の激しさを忌避し、秋水もあえて仕官を望まなかったという。
村上には約7年ほど滞在したが、また飄然として旅に出て遠く長崎に至り、
その後も関西方面に在り志士と交わり、積極的な攘夷を説き意気益々盛んであったという。
その後、越後に戻り三条方面にいたが、文久2年(1862年)に吉田村の富所尚敞の家に寄寓。
翌文久3年(1863年)3月18日、病を得て同所で没した。享年85。
尚敞はこれを自家の菩提寺願成寺(燕市吉田、現・願生寺)に葬り、翌年石を建て、「釈楽水墓」と彫った。
「法華堂西願成寺」新潟県燕市吉田法花堂427(浄土真宗)本鳥山願生寺(元 願成寺)
我が郷里・村上に、これほどまでの激烈な憂国の士がいたとは・・・
当時の小、中学では教えられることはなかった。
現在、村上市民で彼を知る人は果たしてどれだけいるのだろうか?
周辺諸国に不穏な動きが活発化している現代にこそ、再評価されるべき人物。
しかし、歴史の町、我が郷里・村上をしてさえ、
学校では絶対に教えたくない思想、人物である。
【参考文献】
幕末の志士長尾秋水翁 1(謄写:郷土雑誌「高士路」第16-27号)
幕末の志士長尾秋水翁 2(謄写:郷土雑誌「高士路」第16-27号)
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