スポンサーリンク

野口英世 評

何の希望もない
水呑百姓の家に未練はない。
俺は裸一貫で必ず偉くなる。

ー「野口英世 少年期」 野口英世記念会 編

 

「偉人中の偉人」として日本人なら誰もが知る人物。

左手の火傷という障害を負い、貧しいながら努力を重ね、母や師の恩に報いんた聖人君子。

幾多の試練を乗り越え、ついには世界的な科学者にまで昇り詰めた、我が国が誇る英雄。


 

しかし、これほど毀誉褒貶の激しい人物も、そういまい。

 

東北福島の寒村、極貧中の極貧であった農家に生まれた。

1歳半の時に負った左手の大火傷のため、嘲笑され続けた屈辱。

不自由な手をバカにした奴らを見返してやるんだ、という反骨心。

 

 

偉くなるのが敵討ちだ

強烈な劣等感、承認欲求、自己顕示欲、上昇志向の塊。

そして母・シカから受け継いだ天性の強靭な忍耐力。

 

母・野口シカは、自分の不注意が原因で息子に大きな障害を負わせてしまった後悔の念に苛まれたという。

「不具の左手では百姓は無理だ。私が動けるうちに、少しでも多く稼いでおかなければ……」

百姓になれない清作を学問で身を立たせようと、これまでにも増して必死に働いた。

昼は畑仕事をし、夜、子供たちを寝かしつけ、家事や藁仕事をした後は、近くの川でエビなどを採り、翌朝それを売りに歩いた。

さらに冬場には、近所の人々が収穫したものや工芸品など重い荷物を預かって背負い、会津若松市内まで届けると、その帰りには人々に頼まれた買い物をし、それをまた三ツ和村三城まで、往復約30㎞の雪深い道のりを、何10㎏もある庄屋の荷を担いで運ぶという、男性でも音を上げる過酷な仕事もした。

 

野口英世の母シカ (2014/3/20)
田中 章義 (著)

 

 

 

 

 

その根底には、シカが祖母から受け継いだ観音信仰がある。つらくても信仰心を忘れなければ道は開けると信じていた。

 

 

 

第三十番札所 中田観音

会津三十三観音三十番札所。弘安2年に建立されたので弘安寺と称され、中田の観音様と親しまれる会津ころり三観音のひとつ。

野口英世の母シカが深く信仰し、息子の火傷治療と立身出世を願い、毎月17日におこもりをする月詣りを欠かさなかったという。

第三十番札所 中田観音 | 日本遺産「会津の三十三観音めぐり」

 

自分のために必死に働いてくれる母の姿に、清作も答えるように奮起し努力した。

 

 

人、寸陰を惜しまば、われ分陰を惜しまん

 

ナポレオンは、夜3時間しか眠らなかった。
彼になしえられる努力が、自分になしえられぬはずがない

 

誰よりも3倍、4倍、5倍勉強する者、
それが天才だ

 

 

野口英世とライバルだった吉田喜一郎

 

日本基督教団若松栄町教会 / 会津若松市

 

【山内 ヨネ】  告白断った初恋の女性

 

もの凄い忍耐力、持久力、諦めない根性。

努力の積み重ね。

参照(このサイトより引用):https://www.noguchihideyo.or.jp/about/shop.php

 

学歴がなくても医師免許を取得できる医術開業試験を受けるために20歳で上京。

「合格に7年掛かる」といわれていた試験に猛勉強して1年で合格。

 

さらに野口は、偉くなるために懸命に努力するとともに、

あらゆる機会や伝手(つて)を利用した。

 

左手の不具は大きなハンディキャップではあったが、

それは接した人々に強い印象と同情を与え、

「この男に何かしてやらなければならない」ような気持に誘われる要因になったかもしれない。

野口の頼み方には一種、人を惹きつける哀切さがあり、

無心された者が放っておけない気持ちに追い込まれる切迫感があったという。

後年、野口には「男芸者」という綽名さえつけられ、陰口を叩かれた。

 

壮絶な浪費、常識を逸する借金、金銭感覚欠如も甚だしい。

借金のお礼の礼状でさらに借金の催促をする図々しさ。

 

「現在の貨幣価値に換算すると数千万、あるいは数億円にのぼる多額の金を言葉巧みに知人から吸い上げた挙句、素知らぬふりをする悪癖があった」

ー 渡辺淳一著:遠き落日(下)「選集のためのあとがき」より

 

恩師や友人が都合してくれた大事な海外渡航費用も、悉く遊びに費やし、無一文になることを繰り返す(このあたりの詳細も渡辺淳一著「遠き落日」(上)に詳しい)。

 

遠き落日(上) (講談社文庫) 
渡辺 淳一 (著)

 

 

 

 

 

壮絶としか言いようのない無分別な金遣いの荒さには、

驚きを通り越して、もはや笑ってしまう程。

 

博士が教えてくれたこと・八子弥寿男 野口英世記念館 館長

 博士の魅力は大きく言うと、才能と、人を引き付ける正直さですね。正直さは悪い意味でも良い意味でも。恩師に無心するなど、普通の人は出来ませんでした。
博士の肖像が1000円札になり、取材を受けるまでは、私は八子家と博士とのつながりをあまり口外しませんでした。それはじいさんの教えによるものです。
「博士に尽くしたことは、必ずしも博士にとって名誉な事ではない。あまり口外しないように。」とのじいさんの教えを父も私も守ってきました。
それゆえに今まであまりお話をしてこなかったのですが、血脇先生も小林先生もみんな競って「俺が一番支援してるぞ!」と博士の事を支援していたのです。私も1000円札の取材でお話をする機会が増え、親も話していないことをあまり調子に乗って話してはダメだよ、と姉から注意されたことがあります。
ある一部の伝記には、(祖父・八子弥寿平が)博士の口のうまいのに乗せられて支援していたとの誤解があるようですが、そんな事はないです。

 

 

血脇守之助 ~野口英世の育ての親~

 血脇守之助がいなかったら、野口英世の業績はなかったとも言えるほど精神面、資金面で援助をし続けました。
20代にして野口の才能を見抜き、援助した血脇。野口への寛容を非難する声に対し「人それぞれに、おのずから異なった天分がある。野口は稀代の天才児で、これを型にはめすぎて律することは、彼の天分を大成させる所以ではない。」と反論しました。

 

明治33年1(1900年)2月5日、それでも何とか渡航費用を血脇に工面してもらい、単身渡米。

当時24歳。

というか、悪癖の誉れ高い野口に日本では居場所がなかったからといってもよいか。

エリートで、恵まれた環境下で優遇される伝染病研究所や東大に対する激しい闘志、反骨心。

 

伝染病研究所を視察で訪れた際、通訳を務めたペンシルベニア大学細菌学教授、サイモン・フレクスナーとのやり取りだけが頼り。

(しかしそれまでの努力で、VIPの通訳に抜擢れるだけの語学力を備えていたことが幸いしたともいえる)

行き当たりばったり、あとは当たって砕けろ精神。

このあたりの行動力が凡人との大きな違いか。

 

 

いきなり押しかけてきた野口に、フレクスナーは戸惑ったという(当然と言えば当然だが)。

「まったく、あの時は驚いて、日本から本当に来たのか信じられなかった」

ー サイモン・フレキスナーの回想

 

その後、過酷な環境、明日をも知れぬ不安定な状況にあっても、不眠不休の研究、努力。

このあたり東北人、会津人に通底する「ねばり根性」も感じる。

曰く、「二十四時間不眠主義者」「細菌と同居者」「人間発雷気(ダイナモ)」

 

はじめは戸惑い、迷惑に思っていたフレクスナーも、野口の精力的な働き振りを評価するようになっていた。

 

その後、「梅毒」「狂犬病」「黄熱病」など、200本以上の論文を発表。

野口英世の論文

 

1914年(大正3年)単身渡米して14年、野口英世39歳にして、遂にロックフェラー医学研究所における最高幹部である「正研究員」にまで上り詰めた。

ノーベル賞候補に名前が挙がること3度。

 

天地に舞い踊っている心地がします。
この培養が将来、梅毒の治療と予防に及ぼす影響は
必ず大なるものでございましょう。
これも小生の手中にあるのです。
ー 梅毒の純粋培養の成果を報告する恩師への手紙(1902/2/8)より

 

小生が成し遂げました研究は、
従来の業績に見出すことのできない
斬新なものでございます。
ー 野口英世から恩師への手紙(1902/3/13)より

 

忍耐は苦し、しかれどもその実は甘し

ー フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーの言葉。野口は座右の銘にしていた。

 

名誉のためなら危ない橋でも渡る

 

学問は一種のギャンブルである

 

【宮原立太郎】  義兄弟の契り固く結ぶ

 

 

しかし現在、その業績の多くは誤りであったと覆されている。

 

「素晴らし科学者ではなかった。平均レベルでしょうね」
ー ウイルス学者・インディアナ大学名誉教授 ミルトン・テイラー

不安定な地位から登り詰めてきたという、自分の地位を失いたくなたったという焦り、

次々と成果を出さなければならないというプレッシャーから、功を急いだともいわれる。

「間違った主張で偉くなった」などという運命を受け入れることができなかった。

 

1928年(昭和3年)5月21日 死去(享年51)

 

 

「彼は”ワクチンなるもの”を作り出し、誤った安心感を与え、何の利益ももたらさなかった。そして、記録に残っていない、ワクチンを受けた多くの人々の多くの命が失われたのである」

ー 細菌学者 アリステデス・アグラモンテ(黄熱病が蚊によって媒介されることを発表した研究チーム員)

 

「もう、安らかに眠らせてあげましょう。あれはまさしく 野口の心の問題です」

 

ー ハーバード大学 マックス・タイラー(黄熱病ワクチン開発によりノーベル生理学・医学賞受賞)

 

「医学の歴史という観点からは、野口英世は歴史上の人物ではない。
彼は物語の人物である。その物語が、我々を感動させる」
ー 神戸大学医学研究科 教授 岩田健太郎

 

 

 

黎明期のウイルス研究―野口英世と同時代の研究者たちの苦闘 ( 2008/10/1)
鳥山 重光 (著)

 

 

 

 

 

 

 

 

英世がガーナ・アクラで死去した際、本来ならば伝染病で亡くなった患者は原則として直ちに火葬にするのが常識であったが、彼の遺体は金属製で特注の棺に入れられ、密閉された状態でアメリカに戻された。

アメリカ大陸に病原菌を持ち込まないようにすることが目的で、黄熱病の研究を莫大な資金を投じて行っていたにもかかわらず、病原菌をはらんだ遺体をそのままアメリカに送り届ける…

これは異例中の大異例で、ロックフェラー家による敬意の表れであった。

野口英世の遺体は、ロックフェラー医学研究所に2日間置かれ、盛大な葬儀も研究所で行われました。日章旗と星条旗が掲げられ、ロックフェラージュニアが英世に深い敬意を表し、直々に弔辞を読まれた。

その後棺はロックフェラー家など富豪や一流の文化人たちが眠るニューヨークのウッドローン墓地に運ばれ埋葬された。

墓地の用地もまた研究所が英世のために購入したもので、これも、ロックフェラー・ジュニアによる特別な計らいによるものであった。

英世の墓碑には、故郷を代表する名山・磐梯山を模した個性的な形の墓石がたてられ、メリー夫人と共に野口は永遠の眠りについている。

参照:

ロックフェラー邸とユニオン教会見学ツアー > 途中立ち寄るお墓「野口英世」とは

 

 

HIDEYO NOGUCHI
BORN IN INAWASHIRO JAPAN NOVEMBER 24 1876
DIED ON THE GOLD COAST AFRICA MAY 21 1928
MEMBER OF THE
ROCKFELLER INSTITUTE FOR MEDICINE RESEARCH
THROUGH DEVOTION TO SCIENCE
HE LIVED AND DIED FOR HUMANITY

野口英世
1876年11月 24日、日本の猪苗代生まれ
1928年5月21日、アフリカのゴールドコーストで亡くなる
ロックフェラー医学研究所の研究員
科学への貢献を通して
人類のために生き、亡くなった

 

ロックフェラー大学附属図書館の玄関入口の左右に、ロックフェラー1世の胸像と向かい合って、

野口英世の胸像が並んでいる(それ以外の胸像はない)。

明治の半ば、単身アメリカに渡ってきた一日本人の業績を讃えている。

(野口英世の遺功を米国に訪ねる(3))

 

Noguchi, Hideyo
Hideyo Noguchi, circa 1920s Courtesy of the Rockefeller Archive Center Noguchi, Hideyo (1876-1928) was a Japanese born bacteriologist who came to The Rockefelle...

 

公益財団法人 野口英世記念会
公益財団法人野口英世記念会の公式サイトです。

 

ふくしま教育情報データベース - 野口英世の生涯 (1/10)

 

https://www.bandaisan.or.jp/wp-content/themes/bandaisan/pdf/noguchi_map.pdf

 

 

 

 

 

コラム
スポンサーリンク
シェアする
Dr.Gawaso,M.D.,Ph.D.をフォローする
スポンサーリンク
総合診療・救急医療施策要綱(Dr.GawasoのBlog)

コメント

タイトルとURLをコピーしました