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この名曲を聴け!( 悲しみ2(TOO)ヤング / 田原俊彦 )

1981年(昭和56年)9月2日にリリースされた田原俊彦の6枚目のシングル(作詞・作曲:網倉一也)(歌詞

 

 

案外苦労人らしい。

 

小学校に入学後間もなく父が糖尿病で亡くなり、一家の生活が立ち行かなくなったため、母の故郷である山梨に転居。

幼い時に父を亡くして、田原自身を含む4人の子供を抱えた母子家庭の生活は貧しく、また芸能界に対する強い憧れもあって、『貧しい生活から早く抜け出して一家を楽にさせるには芸能人になって成功する以外に道はない』と、中学時代から決意していたという。

 

高校に入学した1976年5月、ジャニーズ事務所に履歴書を送ったが、返事が来なかったため、同年8月、事前連絡もせずに東京の事務所を直接訪問。事務所のスタッフからジャニー喜多川社長の居場所を教えられて日劇へ行き、ジャニー本人と直談判の末に入門を認められる(若年にしてこの行動力!ここが凡人との分かれ目だろう)。

 

高校時代は事務所のレッスンのため週末ごとに甲府市と東京の間を電車で往復する生活を続けた。

田原が高校時代に甲府市の自宅と東京の事務所を往復する際の交通費は全てジャニーが払っており、しかも田原がレッスンを終えて日曜日の晩に甲府市へ帰る際には、毎回必ずジャニー自ら新宿駅のホームまで田原を見送りに行っていたという。

 

1979年3月1日、高校卒業と同時に正式に上京。

母は当初、息子の芸能界入りに反対していたが、息子が正式に上京する時には、

「『やっぱり芸能界は無理だった』、なんて言って逃げて帰って来るんじゃないよ」と言って送り出したという。

 

その後はスター街道まっしぐら。学園ドラマ『3年B組金八先生』に出演していた当時の田原の人気は凄まじく、全国から送られてくるファンレターの数が最高で月18万通にも達したという。

1980年6月、たのきんトリオの先陣を切り『哀愁でいと』で歌手デビュー。近藤真彦と共に、郷ひろみ、西城秀樹から男性アイドルの座を奪い取り、1980年代のトップアイドルとして活躍する。

 

ダンスの上手さも手伝い、日本におけるダンスビートにのせて踊りながら歌うポップスの男性アイドルとしての存在を明確にした。その後も『教師びんびん物語』など、多くのドラマに主演するなど、俳優としても活躍した。

 

『哀愁でいと』から『ジャングルJungle』まで、オリコンシングルの連続TOP10入り37作の記録を持つ(『雨が叫んでる』で通算38作)。これは当時歴代1位の記録だった。

 

TBS系『ザ・ベストテン』では最多出場記録を持っており、同番組には田原の名前入りの青いソファーが1988年1月7日よりスタジオに設置されていた。

 

1980年から1986年まで、『NHK紅白歌合戦』に7年連続出場。

しかし1987年、歌手活動よりも俳優業が多くなった時期ではあるが、シングルは『KID』、ドラマ『ラジオびんびん物語』の主題歌『どうする?』等3枚発売されていたものの落選。

翌1988年に発売された『抱きしめてTONIGHT』がフジテレビ系ドラマ『教師びんびん物語』の高視聴率とリンクしたこともあり、久々の長期的ヒットに発展。

同年の紅白に選ばれるが、前年落選の報復をするかのように、本人の希望で出場者発表後に突然の辞退宣言を表明。

かつて病気や不祥事等で発表後に辞退というケースは何度かあったが、出たくない』という理由で発表後に紅白を辞退というケースは現時点では田原と1970年の江利チエミの2人だけ。それ以外では発表前に辞退を申し出るケースがほとんどであったため、発表後にしかも本人が固辞して辞退というケースは前代未聞であった(カッケー!)

 

元・光GENJI、諸星和己の回想によると、当時の田原はジャニーズ合宿所では別格で、近藤も頭を下げる事があるほど絶対的な存在だったという。

 

かつてアメリカで『日本のマイケル・ジャクソン』と紹介された。

 

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